2023.1.26&27
第Ⅲ部「グローバル化と私たち」では、
基本的に2時間で1セットし、
グループワークで行います。
ところどころ、知識の獲得に重点を置く
授業のみ1時間完結でペアワークとします。
今回は「冷戦と代理戦争」です。
昨年12月にやった授業で
「ベルリン封鎖」を学んだので、
どこかで「ベルリンの壁」を学習したいのです。
だから、ここで「代理戦争」に含めて設定しました。
授業の流れの説明(5分)
4人グループ作り(5分)
P アイスブレイク(5分)
ある国の人物が他の国の人物を踏みつけている絵
何を表しているのだろうか?
A 探究の入口
〇教科書熟読(12分)
〇相互説明(8分)
可能な限り、グループ内で全員が説明
説明と聴く姿勢を優先し、メモは任意。
〇疑問点抽出・共有(15分)
疑問点にしっかりラインを引く
それをグループで共有
グループで調べ、解答を共有
⇒ ダメなら質問を板書
ここで1時間目終了
以降、2時間目
※準備(5分)
B 重要ポイント(10分)
〇インドシナ戦争とベトナム戦争
・仏がジュネーヴ休戦協定を結び撤退
→ ベトナム民主共和国(北)・ベトナム共和国(南)
・米がパリ和平協定を結び撤退
→ 南北がベトナム社会主義共和国に統一
○ベルリンの壁(1961~89)
人材の流出(13年間で約274万人)
→ 流出防止のため「壁」を建設
ポーランドで「連帯」が共産党に圧勝
→ 東欧革命の開始
「ヨーロッパ=ピクニック計画」
→ ホーネッカー政権崩壊でベルリンの壁開放
→ ドイツの統一(1990)
資料の解読(20分)
グループ内で一人ずつ割りあてて相互説明
Q1:ベトナムを植民地にした国はどのように支配しようとしたのだろうか?
宗主国はフランスであった。フランスの国旗は自由・平等・博愛を表すトリコロール(三色)でありながら、植民地のベトナムに対しては独立を認めず、自由を抑圧していることが資料から読み取れる。
Q2:アメリカはなぜ南ベトナムの独立を阻止しようとしたのだろうか?
南ベトナムは暫定的に資本主義であるベトナム国(のちにベトナム共和国)が成立していたが、フランスがベトナムから撤退したため、:社会主義である北ベトナム(ベトナム民主共和国)の勢力が拡大して南ベトナムも社会主義になる恐れがあった。南ベトナムには社会主義勢力である「南ベトナム解放民族戦線」が存在し、米国としては南ベトナムが社会主義として独立するのを阻止したかった。
Q3:「ヨーロッパ=ピクニック計画」はどのような影響を与えたのだろうか?
東ドイツからチェコ、ハンガリー、オーストリアを経て、西ドイツに脱出する「ヨーロッパ=ピクニック計画」が進んでいた。そのため、東ドイツから西ドイツへ人口が流出し、社会主義から資本主義に転換する東欧革命も起こっていた。やがて、ホーネッカー政権(東ドイツ)が崩壊し、西ドイツに吸収されてドイツが統一された。現在のドイツは資本主義であり、首都は旧東ドイツの都だったベルリンである。
G 今日のゴール(15分)
どのように代理戦争がおこり、冷戦は進んでいったのか?
Keyword:インドシナ戦争、仏、ベトナム戦争、米、ベトナムの統一、ベルリンの壁、独の統一
ホー=チ=ミンが大統領になりベトナム民主共和国が独立すると、宗主国の仏は社会主義化を防ぐためにインドシナ戦争を起こした。その結果、ジュネーヴ国際会議で休戦協定が結ばれ、北緯17度線を境に南北に分離し、仏は撤退した。
だが、北ベトナムが社会主義になると、米が介入してベトナム戦争が起こった。ジョンソン大統領は南ベトナムを支援して北爆を行ったが、パリ和平協定が結ばれ、米は撤退した。その後ベトナムの統一により、ベトナム社会主義共和国が成立した。
ベルリン分割後、ドイツでは東から西へ人が流出したため、東ドイツは1961年にベルリンの壁を建設した。だが、1989年ハンガリーがオーストリアとの国境を開放すると、多数の東ドイツ市民が「ヨーロッパ=ピクニック計画」で西へ移動し、ベルリンの壁が開放された。そして、翌年に東が西に吸収されて独の統一が実現した。